「禅的」持たない生き方/金嶽宗信 著を読みました。
■玄関をおろそかにしていたことに気が付く
玄関という言葉自体が禅からきていたのも新しい発見でした。「玄妙なる関門」仏道への入口、悟りへの関門という意味があるそうです。「いい加減な気持ちで入らない」「悟りを開くのは簡単ではない」とされてきたそうでうす。
我が身を振り返ると、すっかりいい加減な気持ちで入っていました・・・。家の出入り口が片付いていないと、家全体の気流にも悪そうです。
玄関までチェックしにくと、手狭な玄関に夫婦それぞれのたくさんの靴が出しっぱなしでひしめき合っていました。もう片付けるところもないな~なんて思っていたのですが、甘かったです。
その日に履いた靴は玄関で干してからしまいたいので、翌日出るときに前日使用した靴をしまう、というのを徹底しようと思いました。
■禅僧の生活を垣間見る
規則的な生活をし、なるべくモノに頼らず、使えるものはあらゆる方法で使い切り、人との交流を大事にしながらの生活。
禅の教えは無駄や執着を削いで自分と向き合うことに重きを置いているので、ミニマリズムとも相性が良いようです。
「禅的」持たない生活三原則:
「所有とは執着である」(所有したいと思う欲求含む)
「物があるのが当たり前だと思わない」
「持たない工夫を楽しむ」
とても単純明快なのですが、理解しているのと実践するのでは雲泥の差があります。だからこれらを実践している禅僧の生き方はとても潔いなと思いました。
禅の教え「本来無一物」は、自分が所有するものは本来、一つもないという意味だそうです。なんでも簡単に手に入り、モノにあふれる現代において、生まれてくるときは身一つ、死ぬときは何一つ持っていくことはできないという事実を忘れがちな気がします。
今、国内外で禅の思想が注目されていますが、古くからある思想が今の人間の心にも響くというのは、技術は進化すれど、人間の本質は昔と変わらないという点をはっきりさせると同時に、故人の知恵をもっと知りたいなとも思わせてくれます。
話はそれますが、修行僧が食事に使う「持鉢」と呼ばれるお椀がとても気になりました。サイズ違いのお椀が入れ子になっているものです。漆製で軽く、1セットあれば何にでも使えそう。収納も場所取らずでいいなぁ、なんて。思わぬところで誘惑に駆られ、まだまだモノへの執着しっかりあります。。
禅僧ほどストイックな生活は難しいけれども、人間生きていくのにそう多くの物は必要ないと実感できると、大切なもの・ことに集中できて必要な部分に自分のパワーを活かせるのかなと思います。
それはここ数年の大規模な断捨離を重ねた私もなんとなく感じている部分です。モノの管理で注意力が散漫になっていたところが、モノを減らしたことにより、自分の内面的なものによりフォーカスするようになったというか。まだ途中段階なので、今後もどうなっているのか自分自身でも楽しみな部分でもあります。